2008-04-04

My Big Problem

Would my applications reach Helsinki University of Technology properly?
Wood program studio which the university is having will adopt only two Japanese students.
Therefore I am passing an anxious week.
Perhaps the result will be announced in next Monday.

I must study English.
Because the studio always be speaked English.
Therefore I study words.
For example: resemble, restore, retain, severe, scatter, multiply, glow, decay, collapse,consist
etc...

Fight!!

2008-03-25

PORTFOLIO

2006-2007のポートフォリオ完成しました。
不出来ですがご覧下さい。
ふかちゃんありがとう!頑張ります!!











2008-02-16

design addictを読んで

1.
まず、卒業設計が終了しました。
写真をまだ撮っていないこともあり、UPはもう少し先になると思います。
卒業設計は、自分の立ち位置を明白にしたわけでは無かったですが、それでも、”こういう道を行きたいのかもしれない”くらいの指針は見た気がします。
そして、何よりも建築が大好きであるという事が理解出来たすばらしい体験でした。

2.
それでは、今回の題目「design addictを読んで」です。
建築史家である藤森照信氏は、ミースから派生した、抽象へ向かう建築を目指す建築家の事を、「白派」と呼びますが、(例えば、妹島和世・西沢立衛・石上純也等。)このような建築から伊東豊雄氏は離れたと書かれていました。伊東豊雄氏は、仙台メディアテークで完璧な虚・実の曖昧性を作品として提示出来た建築家であり、「白派」の最前線だったはずの建築家である。それが、「白派」から離脱する理由とは何だったのか?
確かに、伊東豊雄氏の近作に「白派」の面影はない。ぐりんぐりん・スパイラル・瞑想の森・多摩美図書館、どれも建築の抽象化よりも自然化を図っているように思う。雑誌にも、伊東豊雄氏がガウディのように建築を作ろうとしていると述べている。
私は、今回の卒業設計で、藤森氏の言う「白派」を作りたいとは全く思わなかったことが明白になった。その時、私はどのような建築を作りたいのかと考えたとき、ガウディはすぐに出てきた。ガウディの建築が好きなわけではないが、合理性から生まれる建築に大変興味を持ったのだ。
私が思うに、建築はやはり「白派」では20世紀のままの建築であると考える。建築の21世紀は、自然化・合理化と素材の探求にかかっていると考える。
最後に、伊東豊雄が離れた今、「白派」の最前線である妹島和世氏も「疲れたら離れる。」と言っているそうである。建築が動き始めている。

2008-01-05

±0





























±0のスタディ。
中間ジュリーから、大きく変わって、亀裂はさらに大胆に切られていく。
輪を作る事によって、張力は均等に引っ張り合い、合理的な形態で落ち着く事になる。
それは、傾斜の大きな敷地ほど、豊かな形態・豊かな空間を作り得るだろう。
そして、この空間は、その過程を知ってか否か、豊かで聖的な空間を作りだしていると思う。
しかし、もう一度ビックバンを起こさなければならないような気がする。
現代建築の幅を広げることになる一歩となれれば良いが・・・。

2007-12-13

中間発表



・卒業設計を始めるにあたって
私は、近代建築発生以降、建築は大きく変わっていないと考える。
今もなお、近代建築の空間を今日的に美しい感じるのは、現代建築の停滞を意味しているのではないか?と問題定義をし、建築に新たな一歩を踏ませることを、私は卒業設計の課題としたいと考える。

・コンセプト
建築は建築の共通言語というものに支配されている。
共通言語とは例えば、スタイロフォームによる模型や、「・」を同じ直径でつるっとした円筒形の柱、「-」をつるっとした直線壁と読みとる図面などを指している。
そこで、共通言語からの建築の解放を行うことで、建築は新たなプロセスを踏むと考えた。
私は図面に着目し、建築が常に図面に束縛されていると感じた。
頭の中のイメージを線によって可視化するとき、
3次元的に広がる建築空間の全体的解釈を行うとき
他者と空間のコミュニケーションを行うとき
常に図面というフィルターを通って可視化されると考えたからである。
そこで、私は紙とペンをマストとはさみに持ち替え、空間を描く実験を行った。
これをコンセプトダイアグラムとし、線ではないもので空間を表現しようと考え、スタディを重ね、建築を自然発生的に生み出すことを考えた。
これは、+でも-でもないヴォリュームの作り方であり、これまでにない空間が創出されると考える。







2007-11-18

断面図の記号性

私の言う断面図の記号性とは、図面本来の性質である記号という性質以外に、現代建築の断面図が持っているマスコット的記号性とでも言うべき性質もふまえている。
現代建築の断面図が持つマスコット的記号とは、いわば、建築の断面図をイメージしてくださいと言われたときに思いつくそれであるのだが、詳しく述べると、横に伸びるラインが水平の並び、それを繋ぐように縦に伸びるラインが描かれたものを見たとき、人はそれを建築の断面図に見えてしまうということだ。
そう、あたかも建築の断面図はコレしかないとでも言うように、みながおそらくビルの断面図や下図のような水平ラインと垂直ラインを思い描いたと思うのだ。

断面図の図柄が、”ミッキーマウス=白黒の顔のネズミ”のような、まるでマスコットのようになっているのだ。
断面図の記号性は、建築が相変わらずスラブと柱に影響されている事を意味している。このように考えると、SCI_Arcのように、図面ではない新しいツールとしてコンピューターを使い、スラブや柱に支配されていないアルゴリズム的建築法は、1つの新しい建築の形を表しているのかもしれない。
しかし、これからアルゴリズム的建築法を学ぶには、時間が足りないので、私はある方法を用いることにした。”図面”ではなく”画面(仮称)”を描く。
”図面”は線による。”画面(仮称)”は面によるのだ。
実験はまた次の機会に発表しようと考えています。
建築をル・コルビュジエから解法し、新しい建築へと導くために行っているこの卒業設計は、ある種最も大事な場面に出くわしている気がする。建築の図面の支配性から断面図の記号性へとすすみ、これから”画面(仮称)”という新しい表現方法を編み出して行かなければならない。
僕の運動はまだまだ遠い。

2007-11-07

線ではない表現

線ではない表現と言われて、何の事やらさっぱりであると思う。
この考えを述べるのは、非常に感覚的、いや非可視的で共有しづらいため、背景をづらづらと書きたてることで、それが少しでも可能となればと考えている。

初めに、建築家にとって図面とはいかなるモノなのかを考えた。
建築は、絵画や映画と違って、3次元的に広がっていくものであり、全体的な解釈を行うことが非常に困難な性質を持つ。また、それは他者との情報の共有を困難にすることも意味する。
図面は、そのような性質を補い、そして、空間を操作し、組み替えていくという重要な役割を持っている。
そもそも、建築家は、頭の中のイメージを図面として描くことで、そのものの全体的な解釈を行っていると思う。
しかし、これは言い換えれば、建築が発想され可視化されるときに、必ず図面というフィルターを通してでしか出現しないということが言えると考えた。
暴力的に表現すると、建築は図面に支配されているということだ。
このことを考えたとき、建築は図面から解放させると、必ず変わると閃いた。
そこで、私は3つの実験を行った。
1.図面は通常、線を足すことで表現され描かれていくという性質を再考し、図面を抜いていくことで表現することは出来ないかと考えた。
これは、カンパスをナイフで切り裂き、張力によってそこに隙間が生まれていくということを行った。
この時、図面は今と同じように認識されるのだろうか。


2.図面は、基本的に紙とペンで描かれる。
私は、張力を持ったマストに描けないのだろうかと考えた。それは、自ずとペンははさみに持ち変わることを意味する。
実験が行いやすいように、そして近代建築の象徴として、バルセロナパヴィリオンをマストとはさみで描いた。はさみを入れた途端、張力のある方へと広げられる。この時、図面は今と同じように認識されるのだろうか。


3.西洋建築の図面は、図式ではなく絵画であった。「・」は少し半径の違う装飾を持った柱を意味し、また陰影は色濃く図面に表現された。しかし、現代建築の図面は、誰が言ったわけでもなく、「・」は同じ半径でつるっとした円筒型の柱を意味する。それは、非常に図式的だ。
私は、筆で図面を描いた。またもバルセロナパヴィリオンである。1本の線は、豊かに膨れ、くびれを持ち陰影を作る。この時、図面は今と同じように認識されるのだろうか。

3つの実験を行った後、私は、ふと考えた。
この3つの実験は、どれも線で空間を表現しようとしていないということだ。
線ではない何か、張力の方向・張力の強さ・筆の太さ・絵の具の含み具合などが、あきらかに今、空間を表現しようとしている。
線ではない表現で、建築は我々の前に立ち現れるのだろうか?
そして、ル・コルビュジエから解法され、より良い空間となるのだろうか?
私の運動は続く。