2007-11-18

断面図の記号性

私の言う断面図の記号性とは、図面本来の性質である記号という性質以外に、現代建築の断面図が持っているマスコット的記号性とでも言うべき性質もふまえている。
現代建築の断面図が持つマスコット的記号とは、いわば、建築の断面図をイメージしてくださいと言われたときに思いつくそれであるのだが、詳しく述べると、横に伸びるラインが水平の並び、それを繋ぐように縦に伸びるラインが描かれたものを見たとき、人はそれを建築の断面図に見えてしまうということだ。
そう、あたかも建築の断面図はコレしかないとでも言うように、みながおそらくビルの断面図や下図のような水平ラインと垂直ラインを思い描いたと思うのだ。

断面図の図柄が、”ミッキーマウス=白黒の顔のネズミ”のような、まるでマスコットのようになっているのだ。
断面図の記号性は、建築が相変わらずスラブと柱に影響されている事を意味している。このように考えると、SCI_Arcのように、図面ではない新しいツールとしてコンピューターを使い、スラブや柱に支配されていないアルゴリズム的建築法は、1つの新しい建築の形を表しているのかもしれない。
しかし、これからアルゴリズム的建築法を学ぶには、時間が足りないので、私はある方法を用いることにした。”図面”ではなく”画面(仮称)”を描く。
”図面”は線による。”画面(仮称)”は面によるのだ。
実験はまた次の機会に発表しようと考えています。
建築をル・コルビュジエから解法し、新しい建築へと導くために行っているこの卒業設計は、ある種最も大事な場面に出くわしている気がする。建築の図面の支配性から断面図の記号性へとすすみ、これから”画面(仮称)”という新しい表現方法を編み出して行かなければならない。
僕の運動はまだまだ遠い。

2007-11-07

線ではない表現

線ではない表現と言われて、何の事やらさっぱりであると思う。
この考えを述べるのは、非常に感覚的、いや非可視的で共有しづらいため、背景をづらづらと書きたてることで、それが少しでも可能となればと考えている。

初めに、建築家にとって図面とはいかなるモノなのかを考えた。
建築は、絵画や映画と違って、3次元的に広がっていくものであり、全体的な解釈を行うことが非常に困難な性質を持つ。また、それは他者との情報の共有を困難にすることも意味する。
図面は、そのような性質を補い、そして、空間を操作し、組み替えていくという重要な役割を持っている。
そもそも、建築家は、頭の中のイメージを図面として描くことで、そのものの全体的な解釈を行っていると思う。
しかし、これは言い換えれば、建築が発想され可視化されるときに、必ず図面というフィルターを通してでしか出現しないということが言えると考えた。
暴力的に表現すると、建築は図面に支配されているということだ。
このことを考えたとき、建築は図面から解放させると、必ず変わると閃いた。
そこで、私は3つの実験を行った。
1.図面は通常、線を足すことで表現され描かれていくという性質を再考し、図面を抜いていくことで表現することは出来ないかと考えた。
これは、カンパスをナイフで切り裂き、張力によってそこに隙間が生まれていくということを行った。
この時、図面は今と同じように認識されるのだろうか。


2.図面は、基本的に紙とペンで描かれる。
私は、張力を持ったマストに描けないのだろうかと考えた。それは、自ずとペンははさみに持ち変わることを意味する。
実験が行いやすいように、そして近代建築の象徴として、バルセロナパヴィリオンをマストとはさみで描いた。はさみを入れた途端、張力のある方へと広げられる。この時、図面は今と同じように認識されるのだろうか。


3.西洋建築の図面は、図式ではなく絵画であった。「・」は少し半径の違う装飾を持った柱を意味し、また陰影は色濃く図面に表現された。しかし、現代建築の図面は、誰が言ったわけでもなく、「・」は同じ半径でつるっとした円筒型の柱を意味する。それは、非常に図式的だ。
私は、筆で図面を描いた。またもバルセロナパヴィリオンである。1本の線は、豊かに膨れ、くびれを持ち陰影を作る。この時、図面は今と同じように認識されるのだろうか。

3つの実験を行った後、私は、ふと考えた。
この3つの実験は、どれも線で空間を表現しようとしていないということだ。
線ではない何か、張力の方向・張力の強さ・筆の太さ・絵の具の含み具合などが、あきらかに今、空間を表現しようとしている。
線ではない表現で、建築は我々の前に立ち現れるのだろうか?
そして、ル・コルビュジエから解法され、より良い空間となるのだろうか?
私の運動は続く。